2011年11月24日木曜日

最期の前の最後の時

孤高の旅人

前回のトピックで概ね週2ペースのブログ更新を飛ばした言い訳を書いたが、またまた飛ばしちまったぜ。
何だか今年は色んなことがある年だな。

義父に続き、今度は俺の方の叔父が亡くなった。
今週月曜日のことだ。

享年81歳。自宅での孤独死。
数ヶ月前に妻に先立たれて独り暮らしだった。子供は居ない。

ヘルパーさんに発見され、叔母(叔父の妹)に連絡が行き、叔母から俺に連絡が入った。
自宅で亡くなったため、警察が介入し、遺体は警察署へ。

所轄の『事件性無し』の判断と、それに対する県警本部の承認を経て、翌日午後、遺体はフリーに。
死亡推定時刻は当日の朝6時頃とのこと。

事件性無しってことで司法解剖は無かった。
ホッとした。
叔父は自分が死んだら遺体を某大学の医学部に献体するという申し込みをしていて、叔母や俺に、自分が死んだ時は献体の件、くれぐれもよろしく頼むと言い残していたのだ。
その立派な心意気は汲んであげないとねぇ。

葬儀社が間に入り、某大学医学部と連絡を取って遺体の引渡し。
通夜や葬儀は無いが、遺体を載せたバンの後ろ姿を親族で見送った時は、急な話であれこれバタバタしていた中で初めて涙のシーン。
俺もグっと来てしまった。
その叔父とはここ10年ほど、いろいろあって間柄がギクシャクしていたのだが、バンを見送る時は、『良い叔父さん』だった頃を思い出していた。

人の死ってのは厳かだな。



『老人の孤独死』って、物凄く寂しく悲しく響く。
自分の親族でそれが起こる可能性って、、、あまり考えてなかったな。

しかし、よくよく考えてみりゃ、死ってのは孤独なもんだ。
人はみな、独りで死んで行くんだもんな。

死に際に家族に囲まれてお別れ言って息を引き取るなんて、ほとんど映画やドラマやコントの話であって、まずあり得ない。
病院でだって、大抵はしばらく意識ない状態が続いてからそこに至るんだし。
死に目に会うって言っても、医師が遺族を気遣って、主だった人が集まるのを待ってから人工呼吸器外してチェックして死亡宣告ってことだし。いや、それを茶番だと言う気はないけどもね。

ま、とにかく、死ってもんはどんな形であれ、孤独なんだな。

であればさ、
自分が死ぬ時は、いや、死ぬ前に、もうそろそろ俺逝くなぁってのが意識できたら、きちんと死と向き合って、家族や友人なんかとお別れ言うなり思い出話するなりしてから逝きたいなと、義父の時と今回とで、つくづく思ったね。

でもそのためには、周りの者の意識もそのノリで同調してくれないとダメなんだよな。
「そんな、縁起でもないこと言わないで」って話を終わらせちゃうっての、ありがちだし。

俺自身、今まで親族や知り合いとの死別をそこそこ経験してきてるけど、当人がきちんと死と向き合っていても、俺にはそれが出来ずに、きちんと『最後の時』を共有できてなかった事が多かったなぁと思える。

そりゃその年齢なりの生死観ってのもあるし、しょうがない事とは言え、ちょっと悔やまれるな。

ガンで亡くなった知り合いのお姉さんにも「何言ってんの!しっかり療養して良くなってね」なんて言って話終わらせちゃったし、
第2の養母とも言えた叔母は壮絶に死と向き合って、子や甥の俺にもその事実としっかり向き合えってメッセージを送っていたにもかかわらず、その叔母との最後の時は俺の方がろくに話ができなかった。

難しいのかもしれないな。

希望を捨てるっていう後ろ向きな意味じゃなく、敢えて前向きに果敢に死を迎え入れるってのは、勇気のいることかもしれない。
逝こうとする方も送り出す方も。

でも最期はそうありたいもんだなぁと思ったね。
孤高の旅人なんちって。カッケーな。

その後の事はどーでもいい。
葬儀なんて面倒だから俺も献体の申し込みしとこうかな?
戒名も要らないし、墓はあるけど窮屈だから入るの嫌だ。
遺骨はガーデニングに使えないか? 栄養無いからダメか?
粉状に砕いて水と糊混ぜて粘土にしてチェスの駒作ったらどうだ? 気持ち悪いか。あーそうかい。
じゃあ川でも海でも山でも、好きなとこに撒いちゃえ。
仏壇も線香も必要ないし、手を合わせる必要もない。
ただ、ときどき思い出してくれりゃそれで十分さ。

って、人の死に接すると、やたら自分の死について考えちゃうね。
そういうのは年々強くなってきてる。

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