アイスピックのようなものでグリグリと

激闘100分

その男は静かに俺を見た。 やや疲れ気味なその表情からは残忍さは伺えない。
男は彼のコレクションの中から、全体がステンレスで出来たアイスピックのようなものを選び、手にし、俺に近づく。
マジでそんな物を使うのか？ と思う間もなく、そいつを俺に突き立てた。 「！・・・」声も出ない。俺は無抵抗だ。
血が溢れ出す。　男は構わずアイスピック様の物で俺をグイグイ突きまくる。
俺の中で「パキッ」という音がした。

やめてくれ！痛い。痛すぎる！
何が欲しいんだ！？情報か？ 何でも喋る。頼むからやめてくれ！

そうだ。俺だ。アンドロポフを殺ったのは。 そう、停泊中のフランス軍潜水艦から核ミサイルを抜いてモサドに売ったのも俺だ。 何？違うのか？
国鉄民営化の話か？　たのむからやめてくれ！ 痛いんだ。
それでやめてくれるなら、饅頭だって食べる。羊羹一本丸飲みだってしてやる。ぶどうパン一斤食ってやる。だからやめろぉ～！

あぁ、もう何もかもどうでも良くなって来た。
昨日、東京で木枯らし一号が吹いたって話 -10月に吹くのは10年振り- もどうでもいい。
政府の事業仕分けでついに特別会計に手が入る話 -本当にきっちり整理すれば民主党が主張していた当初の財源も楽勝でひねり出せるのだが、役人たちの魔窟とも言われている特会の牙城を切り崩すのは、あの体たらくな政府・民主党には不可能だろう- も、どうでもいい。
一年に3.8cmずつ、月が地球から離れて行ってる話もどうでもいい。
チリの大地震で地軸が8センチほどずれて、一日の長さが100万分の1.26秒縮まった話もどうでもいい。

ぐあぁぁぁ痛い痛い。 あまりの痛さに思わず顔を歪めてしまった。
するとその男が初めて口を開いた。
「痛いですか？」
小さく頷く俺。
「じゃあ、麻酔を追加しましょう」
な～んだ！追加もアリだったのか！ もっと早く痛いことを表明してりゃ良かった。


俺の親知らずはタチの悪いことに、完全に前を向いて生えている。
歯茎の中に埋まっていて、歯の頭で奥歯の側面を押している形だ。
今までいくつもの歯科でレントゲンを撮るたびに、そこのドクターは唸りを上げていたものだった。
それぞれのドクターの、俺の親知らずに対する見解も色々で、
・これは抜かなくていい
・これは抜けない
・痛みが伴なうようになったら抜いた方が良いがウチでは無理
・抜く時はちゃんとした設備の病院で一泊は覚悟すべし

大変そうなので、一生歯茎に埋没したままで、悪さをしないことを祈っていたのだが、とうとう右側の親知らずの頭（というか肩？）が出てきてしまい、歯茎に腫れが出るようになってしまった。


そんな訳で、10ヶ月に渡る通院で俺のテロリストキャンプを殲滅してくれた歯科クリニックで、今度はこの右側の親知らずを抜きましょうという話になったのだ。

「以前、別のところで、抜くなら一日入院は覚悟しろって言われたんですが」
「いや、大丈夫ですよ。 でも私じゃなく、口腔外科の先生にやって貰いますけどね」

なるほど口腔外科医の登場か。
とは言え、過去の歯科医があんだけビビっていた俺の親知らずをチャチャっと片付けられるってのは、医療技術の進歩なのか、はたまたこの歯科医が無鉄砲なのか・・・ええいままよ！ で任せることにした。

しっかし、最初の麻酔も奥の方までは効かず、グリグリやられた時の痛いこと痛いこと。
麻酔の追加も何本やったか分からないくらいやった。俺、ジャンキーになっちまうんじゃないか？と思いつつ。
ずっと口を開けっ放しで舌が乾いてくるのもキツいな、あれ。　鼻が乾いてる体調不良の犬の気持ちが少し解った。

そんなこんなで、約100分に渡る激闘を繰り広げ、ようやく右の親知らずとおさらばできたのさ。
アゴが疲れた～～～。

仕事帰りに寄ったので、3分で帰宅してすぐ夕飯。 いや、すぐには食べられない。
とりあえず、カミさんが買っておいてくれたウィダーインゼリーで空腹をなだめ、出血が止まってから飯を食べたが、なにしろアゴが疲れてて痛くて、食べる速さはいつもの1/256くらいだった。


翌朝（今朝だ）がキツかった。
ヤク切れで痛い上、アゴの疲弊甚だしく、口が開けられない。喋るのも難儀。
朝食、パンは食べられましぇん で、ウィダーインゼリー。
ウィダーインゼリーも、最後、強く吸った時に抜歯・縫合した箇所が刺激を受けて稲妻のごとき激痛。
力なく「吸えねぇ・・・」とつぶやいてウィダーインゼリーをテーブルに投げ出した。
アハハ。可哀想な俺。

まぁそれでも、顔があまり腫れなかったのは何よりだった。
冷やしてたってのもあるが、どうも俺はあまり腫れないタチらしい。

左の親知らずはこの先ずっと大人しくしててくれるだろうか。そうあって欲しいもんだ。